「オヤジオナPと貴音さんと振り返る激動の昭和」を振り返る
今回のおっホイ枠のオヤジオナPは度肝を抜かれましたな。まったくもって2分にどんだけ詰め込んでんだよ、というおそろしい密度の動画でしたが、アイマスを抜きにしても(KAKU-Tailなのに!)昭和史総ざらえというじつに内容のある動画であったことも事実。なので、出てきたものをなんとかまとめてそれがどういうことだったのかについて調べてみました。
わからない画像がいくつかあるのと、歴史認識は個人差がありますのでそのへんはご理解の上お察し下さい。
あと重要な点がもうひとつ。「ソースは全部Wikipediaを中心としたWeb」ですので。しかし、いまやってるNHKの朝ドラおひさまと同時期の描写だってのがまったく信じられませんなこれ。
ではいってみましょー。
昭和天皇即位:昭和元年12月26日
豊島園全面開園:昭和2年4月29日
豊島区の豊島ではなく、豊島氏の治めていた練馬城址が大元。
円タク
東京市内ならどこでも1円で乗車できたタクシーのこと。正確には大正15年6月10日から。
青い目の人形:昭和2年3月
日露戦争後に満州をめぐって緊張関係が生じた日米間に、アメリカ宣教師・シドニー=ギューリックが日本に送った約13000体の人形のこと。ただし童謡「青い眼の人形」(野口雨情・詞、本居長世・曲)はこれよりも前の大正10年に作られている。
キリンレモン二十五銭:昭和3年3月16日
これまで色つきだった炭酸飲料のなか、透明な炭酸飲料として発売。当時あんパンが5銭で買えた時代に25銭で売り出された。
説教強盗に懸賞金:昭和4年1月19日
大正15年ごろから連続して発生した強盗事件のこと。翌昭和2年5月、強盗に入られた住人に戸締まりや犬を飼いなさいなどと説教するという事案が発生。朝日新聞はこれを説教強盗と名づけた。以降、60件近くまで被害は拡大するも犯人逮捕には至らず、朝日新聞はこの日「捕えたものに懸賞金1,000円」という社告を出すまでに至った。犯人妻木松吉は翌2月23日に逮捕され、懸賞金は警察官らに渡された。ちなみに彼は戦後の恩赦により出所、平成元年まで生きている。
東京行進曲:昭和4年5月31日
溝口健二監督の映画。主題歌「東京行進曲」は日本初の映画主題歌。
昭和四年 上野松坂屋新装開店 昇降機ガール話題に:昭和4年4月1日
震災後にできた新店舗に、エレベーターガールが登場する。新聞には「昇降機ガールが日本にも出来た 上野松坂屋の新館で初試み 婦人職業の新進出」という見出しがあったそうだ。そのエレベータは現存しているので見に行ってみるといいよ。
https://www.matsuzakaya.co.jp/corporate/history/honshi/syowa.shtml
国宝保存法施行:昭和4年3月28日法律第17号
従来の「古社寺保存法」に代わり、これまで古社寺にしか認められていなかった国宝指定が、国有・公有・私有問わずに国宝指定できるようになった。昭和25年の文化財保護法施行によって廃止。それまでの国宝は重要文化財相当とみなされ、その中でも特に重要な物を国宝と呼ぶようになる。
エノケン 浅草オペラ
浅草オペラ自体は関東大震災による浅草六区の壊滅により終焉した、日本におけるオペラの初ブームである。いくつかの歌劇団が存在したが、その当時根岸歌劇団にいた榎本健一がのちに立ち上げた「カジノ・フォーリー」という軽演劇集団がヒット、また榎本もスターとなる。当時のスターには声帯模写の古川緑波や徳川夢声がおり、榎本と古川は「エノケン・ロッパ」と並び称される。
エアガール:昭和6年
昭和2年に設立された東京航空輸送社は、昭和3年に東京−下田の航空路線をスタート。のちに4人乗り(!)の飛行機を入手すると、同乗する客室乗務員を募集することにした。そのときの求人広告のキャッチコピーが「エアガール望む!」だった。3名の募集に141人が応募、合格者は新聞記事で「選ばれた天女三人」と呼ばれた。東京航空輸送社は大日本航空に吸収され、戦後GHQによって解体された。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0207.pdf
少女歌劇団
宝塚少女歌劇団、大阪松竹少女歌劇団、松竹少女歌劇団が有名。特に宝塚が昭和2〜5年にかけて初演した舞台は、西洋風の衣装やラインダンス、階段を使ったフィナーレといった現在の宝塚にも通ずる手法を取り入れたもので、大人気となった。
どりこの:昭和6年
ブドウ糖は滋養強壮にきくという論文を読んだ高橋孝太郎博士が考案した「含糖栄養剤」。論文著者・ドーリック、高橋のイニシャルKO、一番弟子中野松雄のN、3人に共通する文字Oをくっつけて命名。
イノール
胃腸薬。
パミール
美眼剤。
なお、この3つ、ぜんぶ発売元は講談社である。
http://blog.goo.ne.jp/gendai_premier/c/20f82de8d74bdffce9dac50be28a351b
帝都復興祭:昭和5年3月26日
関東大震災で大打撃を受けた東京は、後藤新平を中心に復興計画が立てられ、当初の計画通りとは行かなかったものの、防災都市として隅田・浜町・錦糸といった大規模公園の設置や公園と鉄筋コンクリート製小学校の併置、都内の主要道路の配置といった、現在の東京を形作る都市整備が行なわれる。その集大成として行なわれたのが帝都復興祭である。
羽田空港開港:昭和6年8月25日
当時は羽田飛行場。全長300m幅15m。
五・一五事件:昭和7年5月15日
満州事変以降、政治によるシビリアンコントロールを統帥権の干犯だと考えた「天皇の部隊」である軍部と、対中融和路線をとる若槻礼次郎、犬飼毅とのあいだに生じていた亀裂が完全に裂けた事件。海軍青年将校らが犬飼邱を襲撃し犬飼に発砲、約6時間後に死亡した。そのとき将校との会話の中で犬飼は「話せばわかる」に近いフレーズを用いたといわれている。以後、軍部は政治の中枢へと入り込んでゆく。
特別高等警察部
昭和3年ごろ、反政府運動を取り締まる「高等警察」という警察内の部署から派生した、共産主義などの取り締まりを行なう「特別高等警察」が各都道府県警に設置された。警視庁の特別高等警察課は昭和7年、特別高等警察部へと昇格する。
ロート目薬:昭和6年
これまで別々であった薬剤と点眼器(スポイトや綿棒)を一体化させた、現在のような目薬の容器を発明、爆発的ヒットを飛ばす。
肉弾三勇士:昭和7年2月22日
爆弾三勇士とも。上海事変中、敵陣の張った鉄条網を突破すべく、3人の陸軍一等兵が点火したバンガロール爆薬筒を持って強行突入、みずからも爆死した。これを新聞は「「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」「忠烈まさに粉骨砕身」「葉隠れ主義の露堂々」などと美談記事にした。さらにはこれをテーマにした歌や映画、歌舞伎などが作られたという。
花王シャンプー:昭和7年4月1日
日本発のシャンプー。固形型だったらしい。
大百科事典刊行:昭和6年
平凡社世界大百科事典のこと。全28巻。現在は2007年版が全34巻で発売されている。
パチンコ店第1号:昭和5年
名古屋で風俗営業として認可されたパチンコ店が開店したことを指す。
大リーグ選抜来日:昭和6年、9年
昭和9年の試合は全国12都市で16試合。それがきっかけとなって大日本東京野球倶楽部が結成される。のちの巨人。
昭和恐慌:昭和5年
前年に起きたブラックマンデーの日本における余波。そのまま戦争突入しちゃったので、景気回復は朝鮮特需あたりまで待つこととなる。小津安二郎の「大学は出たけれど」はこの時期の映画(昭和4年)。
ダットソン:昭和5年
明治44年創業した日本初の国産自動車メーカー、快進社は大正14年、ダット自動車となり、昭和5年「ダットソン」、のちの「ダットサン」を発売した。ということはつまり日産の前身である。
十銭ストア:昭和5年
アキバに行ったことのある人は、銀座線神田駅の北側に靴屋とか床屋があったのを覚えていると思う。あれだ。日本発の地下街。百均ライクに全品十銭で買い物ができたのだそうだ。ちなみに過去形なのは、全店舗2011年1月に立ち退いちゃったからである。
ヨーヨー:昭和8年
コカコーラでブームになる前にブームがあったらしい。
コリントゲーム
スマートボールとかピンポールとか。もちろん欧米のゲームだが、昭和初期にその輸入販売したのは小林脳行で、その小林から「コリン」を取ったらしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/dg_kolin.htm
日帰り婦人子供ハイキング
これはもうそのまんま見てもらいますか。こういう低標高登山がブームだったらしい。
http://ohoshisama.info/syowakarano/05syouwaC/syouwaC34hiking.htm
ハチ公像除幕:昭和9年4月21日
本人(犬)臨席での除幕式だったとさ。
怪人二十面相:昭和11年
少年倶楽部1月〜12月に掲載。二十面相の本名は遠藤平吉……だなんておれWikipedia見てはじめて知ったよ。団次郎じゃないのかよ。はいはいBD7はしょうねんたんてーだーん。
二・二六事件
軍部がさらに政治に食い込むことになった事件。今度は陸軍だ! 五・一五が暗殺テロに近いものだったのに比べて、二・二六はクーデターの様相を呈していた。そのため完全終結は3月までもつれこんでいる。戒厳司令部は26日夜にはその設置が認められ、看板が27日に設置。
浅草六区
もともと明治17年に始まる浅草寺を中心とした都市計画「浅草公園」地域を7つに区分けした中のひとつ。浅草公園六区が正しい名前。観音堂周辺が一区、仲見世周辺が二区、伝法院周辺が三区、寺の北に広がった田んぼを造成しつくった池の周辺が四区、花やしき一帯が五区、池の西に新しく出来た興業街が六区。サクラ大戦とかやると雰囲気はつかめると思う。あっちは太正浪漫だけど。
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/meisyo/asakusa6ku.jpg
後楽園球場:昭和12年9月11日
前年始まった日本のプロ野球のために作られた野球場。東京砲兵工廠跡地の国有地に建設。当初は「後楽園イーグルス」の本拠地だったが、最大の建設出資者が正力松太郎だったこともあってかいつのまにやら巨人の専用球場に。おっちゃんは1度だけ試合を見に行ったことがある。
木炭自動車
戦争前夜の時代から石油不足に見舞われた日本が木炭を燃料として動かした自動車。乗合自動車では木炭バスとも呼ばれた。木炭を不完全燃焼させて発生した一酸化炭素を主成分にした可燃ガスが燃料。
日中戦争勃発:昭和12年7月7日
支那事変とも。盧溝橋事件から始まった日中の緊張状態。実は両国とも太平洋戦争突入までは宣戦布告をしていない。宣戦布告をすると他の国は中立国とみなされ、そこからの軍事援助が得られなくなってしまうからである。あとは詳説日本史でも読むべし。
ちなみに戦後使われた「十五年戦争」という言葉は満州事変、日中戦争、太平洋戦争の3段階を指して鶴見俊輔が用いたのが最初とされる。満州事変は明確な停戦協定があるので、これらは連続したものではない個々の事象と考えるのが一般的だが、対中国の戦線拡大という意味からすると一連の流れであるというのが鶴見の主張だった。
皇紀二千六百年:昭和15年
昭和15年は神武天皇即位2600年の「めでたい年」だったのである。また、日中戦争で物資がどんどんなくなっていった国民の憂さ晴らしだとか、国からしてみればこれを機に国体をさらに強化させたいといった側面もあったようだ。11月10日には宮城外苑(現在の皇居前広場)で記念式典が行なわれた。当時の結社(明確には政治団体ではないのである!)大政翼賛会は「祝へ! 元気に 朗らかに」という奉祝ポスターを掲出している。
贅沢は敵だ!:昭和15年8月
記念式典が終わると、大政翼賛会は「祝ひ終わった さあ働かう!」と書かれたポスターを掲示しまくるようになる。それに先だった8月、近衛内閣が推進した「国民精神総運動」と呼ばれる国民"啓蒙"運動の中央本部は東京市内に1500枚の立て看板を設置する。そこに書かれていた標語が「贅沢は敵だ!」だった。そして昭和16年12月8日、日本はアメリカに対して真珠湾攻撃を行ない宣戦布告。太平洋戦争が始まる。
東京大空襲:昭和20年3月10日
東京への空襲はこの日だけではなく、昭和19年以降この日までに106回、また以降も4月13日、4月15日、5月25日にも空爆を受けているが、この日の空襲が一番大規模かつ被害が大きかった。焼夷弾によるこれらの攻撃は軍人や軍需工場のみならず一般人をもターゲットとしていた。
特攻の大放列 神風四五三勇士 レイテ以来の武勲を布告
それでも日本軍は本土決戦を唱え、新聞には特攻隊の美談記事が踊る。
新型爆弾 広島壊滅
昭和20年8月6日午前8時15分。そして昭和20年8月9日午前11時2分は、少なくとも日本人が忘れてはならない時間だろう。あと、これらは着地することはなく、それぞれ上空600m、500mで核分裂反応をおこしている。
戦争終結
終わった。
買い出し列車 ヤミ市
なんといっても都市には物資がない。国は昭和21年3月3日に物価統制令を施行(現在も有効な法律である)、終戦後のインフレ対策を行なったがまったく効果がなかった。食べなければ死んじゃうので都市の住民は地方の農村へ向かい農産物を買い、ときには物々交換で食料を得ていた。また逆に都市では、農産物や日用品を銘々が持ちよって統制令の管轄下には置かれない自主的な市場が形成されていった。その場を仕切っていたのがテキ屋でその後繁華街の暴力団がどうのこうのというのはまた別のお話。
http://showa.mainichi.jp/news/1947/03/post-e654.html
デモ
事件名見つけられず。復員などで人がどんどん増え、失業者は増加し労働運動が盛んになっていた。
固定通貨制 1ドル360円:昭和24年4月25日
昭和20年7月に発効されたブレトン・ウッズ協定は、これまでのブロック経済を反省し、国際協力による金融安定をはかることを目的とした。金1オンスを35アメリカドルとする固定相場制度(金本位制)。GHQはジョセフィン=ドッジの定めた9原則、ドッジラインにのっとり、1ドル360円という数字を導出した。昭和46年8月15日、金とドルの交換を禁止するというニクソンショックからスミソニアン協定が12月にG10間で結ばれ、1ドルは308円となり、そして昭和48年2月には変動相場制へと移行している。
http://showa.mainichi.jp/news/1949/04/360-e2ad.html
紙芝居屋
街頭の紙芝居屋は昭和21年ごろから急速に人気を上げていたが、その「低劣で俗悪な」内容を問題視したPTA(まだ存在していないが、世論的にという意味で)らによって条例などの規制が行なわれる。
サンフランシスコ講和条約:昭和26年9月8日調印。
本名は「日本国との平和条約」。昭和27年4月28日天皇公布・ならびに批准認証による発効。ここで日本は再び主権を回復し、日本国となる。
白井義男 ボクシング世界フライ級チャンピオン:昭和27年5月19日
後楽園球場で行なわれた世界フライ級ボクシングタイトルマッチで、4万人の観衆が見守るなか、挑戦者白井義男は王者ダド=マリノを15ラウンド判定で下し、日本人初の世界王者となった。
破防法:昭和27年7月21日公布
破壊活動防止法。破壊活動防止法とは、暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、規制措置を定めると共に、その活動に関する刑罰規定を補正した日本の法律。5月にあった血のメーデー事件を契機に、警察署などへの襲撃や、デモ行進とそれに伴う暴徒化などのへの対応を主目的とするため法案化。昭和57年当時この法に基づいて調査対象となっている団体は日本共産党、大日本朝鮮人総連合、護国団、大日本愛国党など。
http://showa.mainichi.jp/news/1952/07/post-6d90.html
保安隊発足:昭和27年10月15日
昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争に伴い、進駐軍が多く朝鮮半島に派兵されるようになると、日本の治安維持力が弱体化してしまうとGHQは判断、日本人で構成される警察予備隊が発足される(昭和25年8月)。しかしこれはGHQ占領下での命令(ポツダム命令)であったため、講和条約を経て独立した日本にはそぐわなくなった。そこで警察予備隊を改組し保安隊として新たに編成がなされた。後の陸上自衛隊。
マリリン=モンロー来日:昭和29年2月1日
写真は2月2日、帝国ホテルで行なわれたフォトセッション。近くにはたぶん、ジョー=ディマジオがいたはず。ダンナだし新婚旅行だし。
ゴジラ公開:昭和29年11月3日
詳しくはググれ。
日本初のトランジスタラジオ:昭和30年
東京通信工業がTR-55型を発売。いまのSONYである。
http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-06.html
東京タワー:昭和33年10月14日完成
テレビ放送は昭和28年に開始されたが各局で電波塔が乱立、景観などの面から統一した高層の電波発射塔が望まれていた。また、復興する東京のシンボルでもあった。
一万円札:昭和33年12月1日
C号券と呼ばれているもの。初の一万円札。
神武景気・岩戸景気
いわゆる朝鮮特需を追い風に、昭和29年12月から昭和32年6月まで神武景気、なべ底不況を経て昭和33年7月から昭和36年12月までを岩戸景気と呼び、高度経済成長を内外に示す形となった。昭和31年の経済白書には「もはや戦後ではない」という時代を象徴する文章が書かれている。テレビ・洗濯機・冷蔵庫は三種の神器だとマスコミが呼称しはじめ、日本の中流家庭のあこがれとなった。
少年マガジン 少年サンデー:昭和34年
どちらも同じく昭和34年3月17日創刊。
森永チョコレートバレンタインデーキャンペーン:昭和35年
大々的に新聞広告を打ったのは森永だが、ほかにも日本におけるバレンタインデーの起源はモロゾフ説やらメリーチョコレート説があったりとはっきりしたことはわかっていない。まあ、いまやバレンタインデーは中止状態であるので目くじら立てることもないのである。
鉄人28号:昭和31年。
昭和21年創刊の光文社「少年」に掲載された横山光輝のマンガ。34年にはラジオ、35年にはドラマ、38年にはアニメ第1作が放映される。
ダッコちゃん:昭和35年7月
横浜にあった宝ビニール工業所がつくったビニール人形「木のぼりウィンキー」のこと。腕に引っかけられる形状から、なんでか女性が腕に付けて街中を歩くなどというブームを巻き起こした。ダッコちゃんという名前はそのブームを取材するマスコミから生まれた。宝ビニール工業所はこれで大もうけしてのちにタカラとなる。
ガガーリン:昭和36年4月12日
ユーリイ=アレクセーエヴィチ=ガガーリン中尉は最高高度327kmという宇宙空間を約2時間かけ、地球を1周する。「地球は青かった」とか「神はいなかった」とか言う。だいたい宇宙飛行した人ってスピリチュアルなこと言うよね。この飛行中に本人は中尉から少佐への2階級特進の通信を受けたらしい。縁起でもない。
ハナ肇とクレイジーキャッツ
結成は昭和30年の「キューバン・キャッツ」までさかのぼるが、いわゆるクレイジーの最盛期は昭和34年のフジテレビ「おとなの漫画」あたりから。昭和36年の日本テレビ「シャボン玉ホリデー」、昭和37年の映画「ニッポン無責任時代」など。
第一次佐藤内閣:昭和39年
池田勇人がガンに倒れ内閣総辞職、その後首班指名を受けた佐藤栄作は池田内閣時の閣僚をそのまま留任させた。そんな行き当りばったりな組閣でケチが付いたかに見えたが、以後7年8ヶ月にわたる長期政権となる。
東京オリンピック:昭和39年10月10日〜24日
アジア初のオリンピック、日本の国際社会への復帰などといったシンボル的側面も持つ。ちなみに渋谷公会堂は元々重量挙げ会場である。オリンピックに向けては新幹線や高速道路をはじめさまざまなインフラの整備がなされた。またカラーテレビ需要も増大した。東京五輪音頭は三波春夫のみならず、橋幸夫や坂本九、北島三郎などが歌う競作盤となった。
ニュータウン
都市への人口流入が増加し収容できなくなってくると、国(都市基盤整備公団)は都市にアクセスしやすい距離にある郊外の土地を開拓、住宅地(ベッドタウン)として計画造成するようになる。代表的なものに多摩ニュータウンや千葉ニュータウンなど。都市の住民が移り住んだことで都市の人口が減少するドーナツ化現象という言葉も生まれた。現在、ニュータウン第1世代は団塊の世代を迎え、ゴーストタウン化も引き起こしている。
アイビールック:昭和39年
アイビーとは「蔦」のこと。校舎に蔦がからまってるくらい伝統のあるアメリカ東海岸のお坊っちゃま大学連盟、アイビーリーグに通う学生の服装を見た服飾デザイナー・石津謙介が日本に持ちこんだ。ブレザーにボタンダウンのシャツというのが特徴的。銀座・みゆき通りにそんな人たちがうろうろして「みゆき族」と呼ばれていたのだとか。
ホーロー看板
とはいえホーロー製ではなく金属板に塗装したものが多かった。これらの看板は代理店を通さずメーカーの営業と看板制作業者が直接設置交渉をしており、広告料は現物支給だったとか。オロナミンC(大村崑)やボンカレー(松山容子)、金鳥蚊取り線香の看板はあまりにも有名。
ザ・ドリフターズ
ドリフは5人だが、この写真、なぜか6人いる。貴音さんのポジションは仲本工事だ。じゃあ右上の人は誰だと言うと、いかりやがリーダーになった直後ぐらいに在籍していた綱木文夫。間もなく「笑いのセンスがない」としてクビになっている。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/6848/dorifu8.htm
林家三平(初代)
「昭和の爆笑王」と言われたりした。「どうもすいません」の元祖。テレビの普及にともなって爆発的人気を得て、タレント落語家のはしりとされるが、古典落語はうまいし、高座に上がるときにはきちんと折り目正しい紋付を粋に着こなす人であったという。よしこさーん。
コント55号
坂上二郎と萩本欽一のコンビによるユニット。意外と知られてないが、コンビでやろうと言いだしたのは二郎さんである。ほとんどFIXであったテレビカメラの視界を文字通り飛びだした革命児。日本にピンマイクを普及させたのは萩本だと言われている。
日の丸ジャンボ 日航第一号機:昭和45年7月1日
ジャンボジェットとはボーイング747型ジェット旅客機。これまでの旅客機が多くても200人程度が限界だったのに対し、500人近い乗客を乗せることができた。日本航空はこれを買い受け羽田−ホノルル線を就航させる。垂直尾翼に鶴のマーク、いわゆる鶴丸塗装を初めて施したものでもある。
ゲバゲバ90分:昭和44〜45年
正しい番組名は「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」。言うまでもないが大橋巨泉と前田武彦である。そのテーマ曲はいま、ぐっさんがやってる「のどごし生」のCMで聞くのが一番てっとり早い。ゲバゲバのゲバはゲバルトのゲバ、ゲバ棒のゲバだといま知った(そのパターン多いな)。野球のシーズンオフ番組だったので2クール×2シーズン。ちなみにこれの子供番組版が「カリキュラマシーン」(昭和49年〜53年)。おっさん世代にはこれで50音を覚えた人が多い。らくだいらくちんらりるれろ。
大阪万博:昭和45年3月14日〜9月13日
正式名は日本国際博覧会。ちなみにいわゆる万博は大阪と愛知でしか開かれていない。つくばとか沖縄とか横浜とかは認定博(特別博)である。「人類の進歩と調和」がテーマ。会場はいま万博記念公園としてあるが当時の姿を残す物は太陽の塔くらい。この太陽の塔もパビリオンの一つで中に展示物があったりした。お客さんは下から入って右手から出たと言われている。
日の丸飛行隊:昭和47年
東京オリンピックに次いで冬季オリンピックが札幌で開催された。その70m級ジャンプで、日本の笠谷幸生が金メダル、金野昭次が銀メダル、青地清二が銅メダルを獲得したことをきっかけに日本のスキージャンプ選手陣はこのように称されることになった。
オイルショック:昭和48年
2回あったがここでは恐らく第一次の方。第4次中東戦争のあおりで原油価格が約7割の高騰をみせ、工業製造は大打撃を受けた。これをもって高度経済成長は終焉を迎えることとなる。工業だけではなく、一般生活でも被害は甚大で、その省エネさは2011年夏におけるそれとは比べ物にならなかった。テレビの深夜放送は休止され、ガソリンスタンドは日曜が定休となり、雑誌のページ数も大幅に削減され、しまいには石油とはまったく関係のないトイレットペーパーや洗剤の買い占め騒動が起こった。あれ、なんかほんの数ヶ月前に見た光景ですね。
ブルース・リー
昭和48年の「燃えよドラゴン」、翌年の「ドラゴン危機一発」が大ヒット。しかし日本公開前に彼はすでに亡くなっていたのだった。享年32。なんで制作は後であった「燃えよ〜」の方が先に公開されたかというと、たぶんこっちがハリウッド映画だったから。
連続企業爆破事件:昭和49〜50年
東アジア反日武装戦線によるテロ。その中でも一番有名なのは三菱重工爆破事件(昭和49年8月30日)だろう。この団体は「法政大学Lクラス闘争委員会」を源流とし、第二次大戦以前の「日本帝国主義」はアジアで「悪行」三昧をしていたとみなし、反日運動ならびにそのための武力闘争展開を軸に据える。三菱重工は戦前戦後通して日本の重工業トップメーカーであることからここはいまでも帝国主義である、ひいては経済的にアジアの侵略者でもあるという考えに至った。死者8人、負傷者376人。ちなみに「ぼくのかんがえたばくだんのつくりかた」として有名な「腹腹時計」は彼らによるもの。
70年安保
日米安全保障条約が昭和45年に自動延長される際に起きた反対運動。学生運動なども多くあったが、60年安保ほどの社会的な盛り上がりは起きず、条約はそのまま延長した。現在もこの条約は期限を10年間とし、双方から1年前に破棄の通告がない場合には自動延長されろという内容のまま存続している(第10条)。
アグネス=ラム:昭和50年〜
昭和50年の初代クラリオンガール(当時19歳)。90-55-92のdtpn(当然dtpnどころか巨乳という言葉すらない時代だが)で若者を魅了した。こち亀読むと結構出てくる。
http://d.hatena.ne.jp/risacchi_catch/20001231/1273686276
ロッキード事件:昭和51年
日本においては全日空にロッキード社の飛行機を納入してもらおうといろいろ賄賂やらなんやらがあったという事件で、それだけならまあなんてことのない事件だったのだが、ロッキードは当時の首相・田中角栄にも裏から総額5億円といわれる賄賂を渡していたからさあ大変。昭和51年7月27日、田中角栄逮捕という「前総理大臣の逮捕」という大スキャンダルとなった。「黒いピーナッツ」や「記憶にございません」は流行語になった。よっしゃよっしゃ。
公害
高度経済成長による工業の発展は同時に太平洋ベルト地帯を中心とした工場の乱立でもあり、そのそびえ立つ煙突からは日々スモッグが吐き出され、海や川には汚染された排水がたれ流されていた。その結果が四日市喘息、水俣病といった公害である。工場の町である神奈川県川崎市も大気汚染による公害が発生し、被害者らは昭和57年に企業や国を相手取って訴訟をおこした。最終和解は平成11年のことである。
よど号ハイジャック事件:昭和55年3月31日
「世界を革命するために!」立ち上がった赤軍派は、世界各地の労働者国家へ行きみずからの思想を広め、そこから革命の火を燃やし、ゆくゆくは世界すべてを革命するという壮大な計画を思いついた。東アジアでその対象となった労働者国家が北朝鮮であった。特に思想の一致はなく、むしろオルグしてやるという勢いだったという。そして実行部隊は羽田発福岡行きの日航351便を乗っ取り、北朝鮮へと向かうことにしたのだった。ちなみにこの便には聖路加国際病院の100歳先生(いま現在では10月4日が誕生日の満99歳だが)こと日野原重明氏が乗っていたそうである。
サタデーナイトフィーバー:昭和53年7月日本公開
ジョン=トラボルタの出世作ともいえる映画。ディスコでフィーバー。これで日本にもディスコがガンガンできた。パチンコのフィーバーもこれが語源らしい。映画もヒットしたけど作中の楽曲「ステインアライブ」も大ヒット。あーっはーっはーっはーすてぃんあらーいすてぃんあらーい。
王貞治756号ホームラン:昭和52年9月3日
念のために言っておくが本当は756号で、765号ではない。っていうか王さんは生涯で868本打ってるから765号ホームランというものは存在してるのだが。
成田空港開港:昭和53年5月20日
これもまた高度経済成長によって拡大した国際線航空便が、羽田だけでは追いつかず新しい空港の設置が急務となった。そこで候補に上がったのが成田市三里塚の土地であった。だが、地元農民らの反対運動にあい、さらにそこへ新左翼と呼ばれる活動家が便乗、途方のない反対闘争へと発展した。
共通一次試験:昭和54年
国公立大学共通第1次学力試験。このころは五教科七科目といって理科と社会を2科目受けなければならなかった(昭和62年から五教科五科目)。これまで国公立大の入試にあった一期校二期校制度を廃止、受験生は国公立大を1年に1校しか受験できなくなった。一期校の滑り止めが二期校といった格差の解消や入試地獄と呼ばれる状況の回避が目的だったが、1つの試験で1列に並んじゃったので結局これまで以上に大学間の格差が偏差値という客観的な数字で現わされるようになってしまったのであった。現在のセンター試験。
東京サミット:昭和54年6月28〜29日
日本で初めて開催された先進国首脳会議。みすたーおーひらー。
平凡 明星
芸能雑誌・アイドル雑誌としては平凡が戦後すぐ11月の創刊と一歩早いが、後発の明星(創刊は昭和27年)も毎月別冊付録の歌詞本「YOUNG SONG」などで部数を増やし、このころ最高175万部を達成した。そういえばYOUNG SONGのことをヤンソンとか言ってた。このころはだいたいベストテンとかトップテンで歌を知り、ヤンソンで歌詞を覚えたものである。一部の曲にはコードネームやボーカル譜もついていたのでギターやピアノができる人は人気者になった。おれはFで挫折した。
なめ猫
子猫がツッパリのカッコをしている写真。ポスターや免許風のブロマイドというキャラクターグッズから展開を始めた。「なめんなよ」とか「なめられたら無効」みたいなフレーズが印象深い。ちなみにこんな感じで立ってる「ように見える」のだとか。
http://www.nameneko.com/jp/nameneko/04.html
ところでこれの便乗系でモビルスーツの免許証なんてのがあり、ジオングの免許には「足がつくまで有効」と期限が書かれていた。
ツッパリ・ヤンキー
というわけで不良は人気だったのだが、語源や由来を調べるとたぶん本が1冊書けるだろうから調べない。当時、校内暴力と呼ばれるもので中学高校は大荒れだった。どんな感じだったかは金八先生第2シリーズを見て腐ったミカンを食べながら「世情」を歌うと理解できる。まあとにかく、学校や家庭で押しつぶされそうな少年少女が羨望の眼差しを受けていたことは間違いない。なんせヤツらは「自分にはできないことをやってのける」からだ。昭和53年の「ヤンキーの兄ちゃんの歌」とかパロソングも出た。
宝島:昭和49年6月〜
JICC出版局の発行したサブカル雑誌。このころは。街のへんてこな物を写真ネタで投稿するVOW(Voice of Wonderland)は大人気コーナーとなった。いまはなぜか経済誌。
竹の子族:昭和55年〜
ニコニコ本社の近く、原宿は竹下通りにあった「ブティック竹の子」(昭和53年開店)という店の服を買った若者たちが、それを着て原宿の歩行者天国でラジカセ片手に踊りまくったのである。原宿のホコテンは表参道の交差点から原宿駅を経由して井之頭通りまでの全長2km以上にわたるとても長いもので、いまのアキバホコテンのほぼ倍の長さである(かつてのアキバホコテン終点である上野公園の入口まで延長してもまだ短い。さらにさかのぼれば銀座から上野公園までの中央通りは全部ホコテンだったらしいが)。そこにダンスチームがわんさかやってきて「踊ってみた」をしていたのだ。その多くは代々木公園の中をつっきる、まわりに商店のない道で行っていたからまだいいのだが、いまアキバのホコテンでこれをやったら確実に警察沙汰である。
もちろん"踊る阿呆もいれば見る阿呆"もいるもので、ピーク時には2,000人の踊り手と10万人近いギャラリーが集まるようになっていたという。その中から沖田博之とか竹本孝之とか多くの芸能人が輩出された。一世風靡は本拠地がNHK前なのでちょっと場所が違う。
なお原宿のホコテンは平成8年まで存続していた。
セーラー服と機関銃:昭和56年
角川映画の全盛期。予告CMで流れた薬師丸ひろ子(やくしまるえつこではない)の「カ・イ・カ・ン」にコロッとやられる男多数。まあ相米監督だから仕方ないね。原作は赤川次郎の小説。
ホテルニュージャパン火災:昭和57年2月8日
昭和35年に開業したホテルニュージャパンは、もともとマンションとして計画されていたが、赤坂見附という地の利を利用しホテルに業態変更をして建設された。のちにかの横井英樹が買収、徹底した合理化を進める。それは、天井のスプリンクラーは噴射口だけで水道の配管はしない、内装は可燃材といったものだった。
2月8日深夜3時半ごろ、9階にいたイギリス人宿泊客が寝タバコによる火事を引き起こす。ところがスプリンクラーから水は出ない、内装は可燃材でくすぶり有毒ガスを発生させ、みるみる間に火事は広がる。しかも火災報知器は故障しており、さらに館内放送用のテープもマイクも動かない、防火扉も閉まらない。火事は9階と10階を火と煙で包み、ホテルは12時間以上にわたって燃え続けた。
ちなみにその翌日2月9日午前9時前、羽田沖日航機墜落事故が発生し、うちの担任は授業を中断して教室のテレビを付けこの事故の中継をずっと見ていた。逆噴射。○○機長──って、いま書いちゃダメなのか。
大韓航空機撃墜事件:昭和58年9月1日
大韓航空007便はニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの航空便だった。しかし、なんらかの原因により慣性航法装置の入力にミスが生じ、予定航路をかなり北寄りに飛行してしまう。結果カムチャッカ半島を横切り、ソ連領空に侵入してしまった。パイロットらはそれに気付かぬままさらに飛行を続け、オホーツク海を抜けサハリン南部に接近する。ソ連防空軍は威嚇射撃を行なうが、攻撃機には曳光弾がなかったため、007便のパイロットは気付かなかった。サハリンを抜けた午前3時25分、防空軍はミサイルを2発発射、尾翼に着弾した007便はそのまま墜落した。
当時のソ連は情報隠しが常であり、この件についても関与を否定した。そのためか、日本の報道も情報が錯綜し、一時は「行方不明機サハリンに不時着」などといったニュースが流れた。関与すら否定していたソ連が実はフライトレコーダーまでしっかり回収しており、その分析と事件の概要が明らかになったのは平成3年のことである。
大韓航空にまつわる事件は同じソ連領空侵犯を犯した大韓航空機銃撃事件(昭和53年4月20日)や、金賢姫による大韓航空機爆破事件(昭和57年11月29日)なども有名。
おニャン子クラブ:昭和60年4月〜62年9月
フジテレビ系夕方の番組「夕焼けニャンニャン」から誕生したアイドルグループ。もともと土曜深夜に女子大生を中心とした番組「オールナイトフジ」があり(昭和58年4月〜平成3年)、その女子高生版という位置づけであった。番組内で「アイドルを探せ」というコーナーがあり、それに合格するとおニャン子に入れる、というような形でまあ、いまからすればAKBのプロトタイプでもある。グループ内ユニットもあったし。あと、みんなSAILORSの服を着ていた。「スピーカーは?」「ボーーーーーーズ!」
ファミリーコンピューター:昭和58年7月15日発売
これと昭和60年に発売されたスーパーマリオブラザーズでいっきにテレビゲームがお茶の間に普及した。リビングじゃなくお茶の間のテレビです。
グリコ森永事件:昭和59年〜60年
昭和59年3月の江崎グリコ社長誘拐からはじまり、グリコ、森永製菓、丸大、ハウスといった食品企業を狙い撃ちにした強迫事件。時効を迎えたので結局犯人はわからずじまいである。「キツネ目の男」「どくいりきけん たべたらしぬで」「かい人21面相」というキャッチーなフレーズ(?)で日本中を震撼させた。実際に青酸入りの菓子がお店で見つかったのだからそりゃあ震撼もする。お菓子の包装に開封マークがつくなど厳重になったのはこの事件がきっかけ。くわしくはこないだやったNHKスペシャルを見ましょう。
青函トンネル貫通:昭和58年1月27日
本州と北海道をつなぐトンネル。最深部は海面下240mってんだから人間の技術すごい。そしていまなおトンネル内には水が染み出ていてポンプで組み上げないと水没してしまうってんだから自然すごい。実際の開業は昭和63年3月13日。
ビックリハウス:昭和49年〜60年
投稿雑誌の始祖。セゾングループのパルコが立てた出版社、パルコ出版の出したサブカル雑誌なのだからそれはもういい意味で「これはひどい」雑誌だった。常連に大槻ケンヂ、ナンシー関、清水ミチコ、佐野史郎などがいた。
お立ち台
ディスコのフロアに高い台を設置し、そこで女性を踊らせることで絵的な効果と(入場料の高い)男性客を確保するという効果を狙ったもので、それは見事に成功した。やがてお立ち台に立つ女性もきらびやかになり、ワンレンボディコンといった言葉が定着する。初めて大きなお立ち台を設置したのは麻布十番で昭和59年12月に開業したマハラジャといわれている。なおこういうディスコの代表としていわれるジュリアナ東京は平成3年の開業。
AIDS:昭和60年〜
昭和60年3月21日、これまで日本では縁がないとされていた後天性免疫不全症候群の日本人患者が確認され、各メディアは大きく伝えた。感染は性交渉のみならず、輸入された乾燥血液製剤によっても引き起こされ、薬害エイズ裁判となった。
国鉄分割民営化:昭和62年4月1日
国鉄こと日本国有鉄道は、昭和39年ごろから赤字転落をしていた。自動車の普及、強い労組によるストライキの頻発、インフレ防止のための運賃抑制が主な理由とされる。昭和50年代からは値上げや不採算路線の廃線などを開始したが37兆円(バランスシートは公開されていないので正確な数字ではなく、マスコミによる表現である)とも言われる累積債務の前には焼け石に水であった。そして昭和57年の中曽根内閣時の第二次臨調(土光臨調とも)で分割民営化の方針が決まる。
写真は昭和61年12月3日、国鉄内に設置された設立準備室立ち上げの様子。
三原山噴火:昭和61年11月15日〜22日
たぶん。伊豆大島を形成している活火山・三原山で15日午後5時25分に始まった小規模な噴火は、ある意味で格好の観光資源となった。溶岩は内輪を出たもののカルデラ内におさまり、かつそこで小康状態を取り戻したからである。しかし6日後の21日午後4時15分、マスコミのカメラが取材をしているその前で再び噴火が起きる。この噴火で溶岩は山をくだり、集落まであと数百mのところまで接近する。最終的には島民全員が島外に避難をする事態にまでなった。
バブル景気:昭和61年12月〜平成3年2月
昭和60年のプラザ合意によって、それまで240円台だった円相場が1年ほどで120円と、急激な円高になった。それに伴い公定歩合も下がり、さらには法人税が12%下がるなどの要因もあって、富裕層に金が集まり、その投資先が土地や建物に集中、実体経済以上に資産価値が上昇する事態となった。土地や住宅の価格はみるみる上がり、とりあえずいま買っておこうという人が増え、価格上昇に拍車をかけた。だがよく知ってのとおりバブルははじけ、就職氷河期が訪れ、そして失われた20年へと続いていく。
リクルート事件:昭和63年
リクルートの社長・江副浩正が、自身や自社の便宜をはかるため、当時まだ株式を公開していなかった子会社・リクルートコスモスの株贈与や賄賂、パーティ券の買い上げなどをを川崎市の助役や森田康日本経済新聞社社長、真藤恒NTT会長、長谷川寿彦NTT元取締役など、官僚では高石邦男前文部事務次官、加藤孝前労働事務次官、原田憲経済企画庁長官、鹿野茂元労働省課長、池田克也元衆議院議員など、そして政治家では中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄、藤波孝生、長谷川峻に対して行なっていたことが発覚。
また松原弘リクルートコスモス社長室長が、国会でこの問題を追及していた社民連の楢崎弥之助に対し、手心を加えるよう贈賄を申込んだことが楢崎の隠し撮りでニュースで流れたりした。リクルートコスモスは現在のコスモスイニシア。
昭和天皇崩御:昭和64年1月7日
午前8時前の臨時ニュースとかはつべを見ましょう。おっちゃんは当時新聞配達をしていて、朝刊を配り終わって販売所に戻った途端このニュースが流れて、店の中が臨戦態勢になったこと、2時間もしないうちに号外が輸送されてきて、配達員総出で繁華街に向かい「号外でーす」したことを鮮明に覚えている。所長に「全部配り終えるまで帰ってくるな」と言われたが、5部だけ残していまでも保存してある。