OUTという「場」の持つ評論性

ブコメで書いたとおり「オタナビ」を買ってきた。そのコメント通り「月刊OUTとはなんだったのか」にしか興味はなく(笑)、とりあえず読んでみた感想を「ゆう坊のでたとこまかせ」背番号2000番台であるおれが書いてみるわけですが。
あー、そもそも本文にもいきなり「背番号」とか書いてあって意味不明だよねー。背番号というのは、初掲載時に与えられるペンネームに対応した一意の数字で、その背番号をもとに掲載本数を計算され、年1回でたまか大賞というものが授与されるシステムだったのです。

で、アルマゲドンレベルの隕石が地球に落ちたら紙なんて全部燃えちゃうどころか地球崩壊しちゃわね? とかいう素朴な疑問はおいといて、と。

この文章は見事に「不滅のOUT大特集」の文脈に沿って展開されている。確かにこの号のOUT特集は最盛期のOUTについての第一級資料である。おれも何十回も読んだ。だがこれはあくまでもTさんこと大徳哲雄氏の文責であり、またこの号をもって編集長を退任、翌月みのりを退社する立場にある彼の一種の遺言という非常に主観的な文であることを忘れてはいけない。そういう点では「5周年記念のOUT特集」や「コミックGON!におけるEさんの記事」にも目を向けてバランスをとるべきであるとは思った。

そして大事な視点が抜けている。それはOUTはなぜOUTという誌名だったかということにもつながる。端的に言えば
「OUTは"to"ではなく"by"の雑誌であったのだ」ということだ。
簡略しすぎた。たとえば中期のメインコンテンツであったアニメでいうならば「アニメを楽しむ」雑誌ではなく「アニメで楽しむ」雑誌だったということだ。
すべてを「out」な視点で楽しむ。これこそがOUTの真骨頂である。そこには大きな3本柱の存在があった。

まず、重要な役割を果たしたのが、霜月たかなかである。SF大会でスカウトされた氏はやがて米澤嘉博などの人材をOUTに送り込み、また「アニメ・ジュンの大発見」「鏡の中のアニメーション」などの論考を発表してゆく。なぜ彼がそんな人脈を持っていたかというと、彼は初代コミックマーケット代表原田央男その人だからだ。
また同時期に二大評論家として名を馳せたのが南田操だ。彼の名を一躍広めたのは「イデオン三大批判」。救いのない終わり方をしたTVシリーズに対して映画版では「明るいイデオン」を標榜し、イデみこしやらイデ音頭などが飛び出す各種イベントを行なっていたころの話である。「純粋イデオン批判、実践イデオン批判、宣伝力批判」というまごうことなくカントのパロディをもって論を展開したことはかなりの反響を呼んだ。
本文にもあるようにいまも昔もアニメの記事はほとんどが制作会社の広報から提供された素材を用いて作成され、さらに制作会社のチェックを受けた後に完成記事となる。その呪縛を逃れるには「評論」というジャンルは格好の方向づけであった。ここに1本目の柱が立った。

2本めはパロディである。素材がない、インタビューもない、そもそも編集者が10人以上いたことがない。そんな中でアニメを活用した紙面構成として使われたのがアニパロだ。アニパロという言葉自体ここで登場したものである。

そして3本めは読者投稿である。もちろんこれまでに「宝島」や「ビックリハウス」といった雑誌において投稿文化は根づいていたが、編集者による投稿ページはFrom御茶ノ水での1コーナー編成からミックスサンドでの複数コーナー編成となり、やがてZことヤナケン効果によるライター陣の投稿コーナーがはじまる。投稿と言えば文字が中心となりがちだが、ミックスサンドでは紙面にとじ込まれコマ割りと1個だけネームの入った原稿用紙を使った1Pマンガの投稿「ザ・コンテスト」(ザ・コン)が展開され、後年のヒットコーナーである「花小金井かんとりい倶楽部」(花CC)においてイラスト投稿をメインに据えるきらびやかなレイアウトを用いたバランス感覚は見事なものである。さらにはイラストレーターであるわん,によるカラーイラストのコーナーも充実していた。

また代々編集長が受け持つ"本当の投稿欄"「READERS' VOICE」は「バカなオレたちもまじめなときはまじめに考えるよ」という姿勢を示し、1本目の柱である評論への人材供給源となった。実際のところこの欄からOUT本誌へのデビューはなかったが、後年のエヴァブームには複数の常連投稿者が評論本を出版していることを確認している。

ここまでで「Tさん」を「Tさん」と呼称した。実はこれもOUTにとって重要なファクターの一つである。それは近さだ。アニメを見るというだけではなくアニパロや評論によってアニメ作品に接近し、編集者やライターのキャラクター化によって雑誌と読者の間も接近する。さらには「アウシタン集会」と呼ばれる読者間での集まり、いまで言うオフ会によって読者間も接近する。これは全くの不可分であり、すべての読者がOUTという雑誌を構成しているという錯覚を覚えるようになっていったのだ。

だが、やがて衰退は始まる。キーワードは新陳代謝だ。Tさんは実に約7年ものあいだ編集長をつとめた。その間すべての人たちが、そう、ライター、編集者、そして読者までもがTさんに守られている感を持っていた。しかしそれはどうしても読者の固定化を招いてしまうことに直結する。現に年々読者層は高齢化し、新規参入が少なかったのだ。そしてTさんはみのりを辞め、後任にはYさんが就任することとなる。Yさんは新規参入層の増加をかなり意識した紙面改革を行い、既存連載を大幅に入れ替えた。だが、思った以上にその効果は薄く、それどころかこれまでの固定客からの反発、さらには編集者からの反発をも招いてしまった。Yさんに代わりNどんが編集長となるも、凋落傾向に歯止めはかからなかった。

しかし当時は「アニメ冬の時代」と呼ばれる時期で、大規模なヒット作が現われなかったことも大きい。Zガンダムがこれまた救いのない終わり方をし、「明るいガンダム」を標榜したはずのZZガンダムもまたなんというか……という終わり方をし、アニメで楽しむ層の熱は相対的に下がって行った。その完全復活は勇者シリーズエルドランシリーズ、富野監督が離れたガンダムブルーシードマクロス7を経て到達する新世紀エヴァンゲリオンを待たねばならなかった。

また、その間に数少ないアニメファンのニーズは完全に変化してしまっていた。大学生時代にアニメックで副編集長をし、やがて角川書店へ就職した井上伸一郎が立ち上げた「ニュータイプ」はアニメ誌のグラビア化であった。この「アニメを楽しむ」への強力なパワーはいまもメインストリームのアニメファンをそこへ引きつけ、そして彼らも満足している。こうなると「アニメで楽しむ」雑誌に勝ち目はない。かくてOUTはみのり書房解散と同時に休刊ということになった。そもそも、みのり書房とは朝日紙業という紙の卸会社の子会社で、紙を使った事業をという理由から設立された会社だ。そしてOUT以外にも雑誌を立ち上げたことはあったが、ことごとく失敗し、時を経るごとに「お荷物状態」になっていっている会社だったのだ。そんな出版社が18年定期刊行物を出版していたこと自体が奇跡ではある。

まとめる。
確かに本文における結論「OUTは場であった」はおおむね賛同出来る。だが、全盛期のOUTは評論・パロ・投稿の3本柱と、ライター・編集者・読者というまた別の3本柱が絶妙のバランスで噛み合いながら、新たな視点、遊び方をファン提示した。つまりOUTは場の提供のみならず存在自体がアニメなどのコンテンツに対する評論であったといえる。

というところでそろそろ気付いてきた人もいるかと思うが、このOUTという「場」はなんとなく「ニコニコ動画」や「pixiv」あたりのサイトと類似していないだろうか。アイマスで楽しむ人、ボーカロイドで楽しむ人、東方で楽しむ人。よってたかって「場」に集まっている。別にOUTの生まれ変わりだなんて言う気は毛頭ない。ただ、場に引かれてさまざまな才能が登場する図というのはやはり存在意義があるのだということだ。


それにしてもなにがいちばん面白いって、おれ、この文をなんの参考資料なしで書いたとこだよな。どっとはらい